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心が翻弄される理由(原因)とは何か?その正体とは?

目次

映画『マトリックス』をモチーフにして考えてみますと

これからお話しすることは、映画『マトリックス』を題材として、何故、心が動揺してしまうのか?その原因とは何か?もしくは正体について考察していきますが

まだ、映画をご覧になっておられない方々はネタバレにつきご注意ください!

新作映画の『マトリックス・レザレクションズ』を見るに当たって、マトリックスシリーズをNetflixにて再度、ガン見で鑑賞してみました。

何故、マシンは人間を電池にする必要がある?

当初はとても刺激的なアイデアを映像化したものだと思いつつも、どうして、原子力をエネルギーとして活用できるマシンがわざわざと人間から微小な電力を必要とするのか?

そもそも、カプセルに入らされて動けない人間から電力を回収することができるのか?

という疑問がずぅーっとわだかまりとしてあったのだが

何故、マシンは人間を生かしたままにするのか?

もうひとつの疑問である、何故、マシンは人間を生かせたままにしているのかについて、考えてみた時に、今まで、わからないままで悶々としていたものが少しずつ解明に向けてほころびてきました。

このことは、マトリックスという映画ならではの特徴?とも言えることで、映画『ターミネーター』と違ってマシンは人類の敵では無いと捉えているのではないか、と考える私にとって腑に落ちたのです。

マシンには人類を破滅させるという目的が無いと考えることで、人間と共存することを【目的】とした仮想世界を作り出し、「人間と共存できる」という仮説を検証する為に、過去に六度も模索したことからも言えると思えたからです。

また、「人間とは何か?」を研究材料としているのかもしれないし、平和を望む人間とは裏腹に破壊を繰り返す人間もいるからこそ、カプセルの中に閉じこめて強制収容することで支配しているのかもしれません。

ちなみに、西洋文化でマトリックスのコードが縦書きで、しかも、カタカナ混じりって面白いです!

マシンの【目的】からは【自由】になれるのか?

そこで、マシンの【目的】からは【自由】になったとするエージェントスミスについて考えてみます。

エージェントスミスはネオを通して、マシンのシステムと交わったことで、その仕組みを知ってしまった。ここのところは微妙でネオはマシンにとってアノマリー(異端児)の中でも救世主を想定したものとしてプログラムされた人物だとするならば

エージェントスミスは、その仕組みを知ることができて、知ることでシステムから離れることができた。

だから、もう、マトリックスの僕(シモベ)ではないし、もはや、システムの一部ではなくなった。

そこで、彼は自由になったと考えた。

しかし、映画マトリックスの投げかけるテーマの一つに、「自由意志は存在するのか?」というのがある。

マシンの【目的】に沿えない「自由意志は存在するのか?」について

マトリックスで最古のプログラムであるメロビンジアンは言う

「自由は見掛け倒しだ」

そして

「理由からは逃れることはできない。目的を否定することはできない」

と、このことが真実だとすれば(ココでの目的はマシンに与えられた目的)

私たちは理由なしでは存在することができないし、存在するには必ず始まりがあり目的というルートを通じてそれに従わざるを得ないと言えるし

また、目的通りに動かされその目的に沿って従わざるを得ないし、逃れることはできないと言えるが、ネオを含めて映画を観ている私たちも逃れられることを期待している、つまり、自由意志を期待しているのだ。

ここで想定される反論で、「じゃあ、なんでマシンはネオを使ってスミスを始末させるのか?スミスはマシンの目的に沿ってないじゃん」と

しかし、これはネオという人間がここでどのような選択をするのかという研究材料の一つとして使っただけだとすればスミスに自由意志があるとは言えないだろう。

ヴェーダンタ哲学における「心が翻弄される目的(原因)とは?」について

最後に、表題の「心が翻弄される目的(原因)とは?」について、古のインドより伝わるヴェーダンタ哲学の考えを今までの考察の流れに当てはまるとどうなるのでしょうか?

そして、存在する真の理由つまり原因とは何か?

心が乱れてしまう本当の理由(原因)を突き詰めれば...

私たちが現実だと知覚している世界の中で、自らが予期せぬことや都合の悪いことなどが生じるとき、私たちの心は容易く乱れるのだが

何故、心が乱れるのかについての本当の理由もしくは原因が何であるのかを熟考することなく、その状況にて目が知覚した状況がそれを引き起こしたと信じているのだ、と考えるのがヴェーダンタ哲学であり、また、一般的には自分の外側で起きた状況や人物が私の心を乱しているのだと考えるのであろう。

しかし、ヴェーダンタ哲学の考えを地図として目的地へとたどり着くための乗り物となるヨーガの瞑想は、「何故、心が翻弄されたのか?」について熟考することで、ヴェーダンタ哲学の考えを実践しようとする。

自分の外側で生じたとして心が翻弄される理由について、これでは無い、これでは無い、と、真の理由を自分の内側で生じさせた何か(内的心理器官:アンタカラーナ)を掘って掘って掘りまくるのだ。

おそらく、最終的には、ほとんどの探求者は気づくのが、何の理由もなく翻弄されていることに、むしろ、過去の記憶の中で残存させた印象(イメージ)による解釈によって決断された理由だったということに…

喩え話として、真夜中で蛇であると思って怖がっていたものが昼の太陽の下ではただのロープだったというのがあります。

つまり、そもそも、心が翻弄されるという理由すなわち原因は無かった

だから、心は平安そのもので在ると…

探求者である彼は、自らが存在する真の理由つまり原因とは何かを知るだろう!

より心についてご関心がおありな方々へ

また、よりこのことに関心がおありの方々にのマシンの【目的】とこの現実だと信じ込まされている世界の作り主たる自我の【目的】の共通することも見逃せない。

マシンも自我も知覚されている世界はともに現実だと、すなわち、マシンは仮想世界で自我は夢だということを、このシステムを知られないように、「自由意志」はあるかのように錯覚し続ける、すなわち、選択できる自由が存在する理由(原因・意味)を青いカプセル(覚醒剤?)のように与え続けている。

また、「救世主」という幻想を共にこのシステムの中にシステムの一部として組み込んでいる巧妙さに騙そうとしていることもマシンと自我が【目的】の一部としてプログラム化していることも見逃せない。

さあ、赤いカプセルを飲むという選択は私たち次第だ✨

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